知るの次は?

新時代、人格を保ちながら生き残る

そのためには知っておかなければならない事ってあるんです。

それが、これ。
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私は、直接、戦争時代(日露・第一次大戦・大東亜戦争)を生き抜いてきた家族が未だいる家の子供でした。

だから、何が一族の運命を分けるのかを毎日毎日聞かされて育ちました。

理由は曾祖父・祖父が軍人で、海軍に、物資輸送の計画者だったからです、

敵に輸送経路を知られないためには相手方の情報を先に知る必要があります。

暗号解読が必須となっていたようです。

満州の奥地から終戦の1年も前に日本に家族を連れて帰ってきた、

「自分が前線に兵士として出ること」と引き替えに家族をつれて日本に戻る。

この選択のお陰で、私はこの世に生を受ける事が出来ています。

それは、相手方の戦況を知ることが出来る職業だったから…

DNAも戦況も…

全部、正しく知るかどうかだけの違いです。

自分の家族だけ無事に連れ帰るなんて…卑怯な……と「後ろ指を指されようとも」

祖父の選択は祖父の遺伝子を未来につなげました。

それは、情報を先に手にしたものが中立に選択できるのです。

祖父は卑怯な選択をしたのかも知れませんが、替わりに、行かなくてもいい激戦区のマレー半島に出兵しました。

しかも戦況は悪化の一路を辿っているのを分っていながら…

結局、見せしめのようなものです。

けれど、母や叔父・叔母は残留孤児にならずに済みました。

そう、知っていなければならない事が山のようにあるのです。

寝ぼけていては、知らないふりをしていては、明日の平穏な日々が消えて無くなるのです。

健康だという錯覚

明日のあなたを存在させないかも知れないのです。

血液検査は今日までのあなたの瞬間的なデータでしかありません。

明日の予測は含まれていないのがあの、データです。

あなたは、あなたを具体的に客観的に知って、変われるか?

多分その答えは「No 」です、何故なら、私が無理だったからです。

だから、知るというのは変化ではなく、選択のために必要であって変化のためではありません。

知ることが即「変化」へ、なんて…大きな勘違いであり、そうでありたいという願望の現れでしかありません。

知ることの次に起るのは「変化」に直面した場合の「選択」です。

その選択に、バイアスがかかったまま選択をするのか?ニュートラルな状態で選択に直面するのか?

もしニュートラルな状態で選択した場合、感情的には非常に落ち着いた状態で行われます、

その恩恵は計り知れないのです。

未来を切り開く道を選択する可能性を120%いや、それ以上に秘めていると言えます。

さて、あなたは理不尽な出来事を受け止められる準備があるのでしょうか?

その準備はまずは「知る」事からです。

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