時間があいて、謝罪できるチャンスを頂けました。
厳しく、叱られましたが、それは大変有意義な出来事でした。
なぜなら、気がついたときに、謝罪するのが普通です、通常では出来事が起ったときに謝罪するのが当たり前ですが、それではいいわけをしてしまう場合があるのを常々感じている中で起った出来事でした。
お客様にお伝えする内容が先にあるとき、その出来事を指さして、このことについて謝罪をして、感情の波を押さえたところで、津波のような怒りの感情は決して収まりません。
自分の不手際や調整不足の結果起った出来事であればあるほど、瞬間的に言訳をしてしまいます。
今回のチャンスはお客様が次の講座受講の相談にお見えになった際に頂いたお叱りでした、お叱りの内容はどんな出来事についてかと言うと、2回に渡ってお待たせし、挙げ句の果てさらにお待たせしたにもかかわらずその時お渡しする資料を機械不備でお渡しできなかったのです。
時間と言う距離と空間によって俯瞰し消化し枝葉のことでは無く本質的な点を指摘して下さいました。
待たせると言うのには相手の時間を奪っている、相手の命を奪っていると言う自覚が無いのですか?と言うモノでした。
言訳をしない生き方を続けようとすれば、必ず超えなければならない山、あるいは峠かも知れません。
そのお客様が、私の提供する講座を受けようと考えるとどうしても自分に一つの条件を当てはめてしまいます、と仰いました。
お聞きすると、
お客様:朝顔さんの講座はどれもこれも自分が積極的に実践すると変われる講座ですよね」
私 :そうですか?いつからそう思われていました?
お客様:最初からでした。私にはそう感じられるんです。だから、今の私のように、誰かに何かをして欲しい、して欲しいという誰かに頼りたくて、誰かに助けて欲しい気持ちが半分以上の状況には苦しいです。 自分が積極的に自分を開発したい気持ちが強いとき、強くなりたいときにはスムーズにスタートできるんです。
私 :なるほど…
正直なところ、こんなにマインドは伝わるモノなんだと、忌憚ないことばをお聞きして感動しました。
言訳をしない生き方は積極的に自分のアクション変化の舵を切ると言う事に繋がるように感じます、自主的で無ければ何一つ変化は起こせない、おきないというマインドを強く感じ取って下さっていた、逆に私はそれを強く打ち出していた。と言う事なのだと知った瞬間でした。