秦の始皇帝時代からの未解決事件

有名な話ですね…

「不老長寿の秘薬」を探すために

腹心の部下を日本をはじめとする

各地に探索に出させた話。

なしえなかった事、

心残りか、

後悔か

どのような心境であったかは

想像の範疇をでませんが、

彼は領土を広げて、

治めめれば治めるほどに寿命や肉体に

執着が生まれたのでしょうか?

そもそも、肉体の寿命が短いことや、

戦いで死ぬことを予測していただろうに

いきなり不老長寿とは突拍子も無い願いの

ような気もしないではありません。

ですが、彼が真剣に求めたおかげで、

探し当てたと言われているのが、

耶間永(大和)食。

※ヤマトは仏教用語の「阿頼耶識」の同音を基に

当てられた耶間永が妥当と言われております

今の和食のルーツか

全く違うかは文献などが無いので、不明ですが、

未だ、国として形を為していなかった時代の

日本列島です。

どのくらい前かは未だに不明です

私たちが教科書で習う歴史と違っています。

徐福の上陸地は「京都の舞鶴」にありますが、

それは何度目かの上陸だったかも知れません。

と言うのも、徐福は最初、

大和を訪れた際に、この地を大変気に入り、

再度この地を訪れるための作戦を練ったと

言われています。

始皇帝の求めるものがあったと報告し

秘薬を手に入れるためには

それなりの献上品と交換するしか無いと

報告しているからです。

その献上品とは、

技工士、

賢者(数学・科学・天文学など)、

薬師、等あらゆる分野の

頭脳、技術者をさしています。

始皇帝は、悩みますが、

自分の命が長らえるならば、

もう一度それらの賢者を養成、

育成する時間もあると判断し、

徐福に全ての条件をのむと伝え、

許したそうです。

その始皇帝は結局、

徐福の裏切りにあい、

大和食は手に入らずじまい。

日本には表沙汰にならない

歴史の痕跡が多々ありますが、

食に関しても残された文献は少なく、

いつ頃確立されたものかは

定かではありませんが、

私たちの食卓に並ぶ様々な発酵食品を

主体に生活をシフトすると、

それまでの腸内フローラのバランスが

長寿遺伝に影響のある酪酸菌が増えるという

研究結果も出ています。

日本人の寿命がどの程度かは細菌感染さえ

免れればほぼ、

長命であったろうと推察されます。

寿命は出産時の致死や幼少期の感染症、

ケガや内戦などによる致命的外傷以外では

短くならないようです。

始皇帝が、耶間永(ヤマト)食

(大量の発酵食品を生み出す技術)に

出会っていたら…

歴史は全く違うものになっていたかも

知れませんね。

そんないきさつからか?中華圏と日本の溝…

逆恨みのような…どうでしょうか?

中華料理が日本食風になると

中華圏とのいざこざは消えるのでしょうか?

そこは少少謎…(^^;)

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